コンテンツへスキップ

第2回「麒麟麦酒開源記念碑」

    麒麟麦酒開源記念碑

    横浜開港後、ビールは外国人用向けにイギリスやドイツなどから輸入されていましたが、徐々に日本人愛飲家も増え始めたため、輸入量が急速に増加していきました。
    そのため、国産のビールを製造することになり、1869年(明治2年)「ジャパン・ブルワリー」の支配人になる契約を結んだウィーガントが来日して、山手46番に日本で初めてのビール醸造所である「横浜ブルワリー」を創設しました。
    その翌年、ビール醸造技師コープランドが山手の天沼(現在の中区千代崎町・諏訪町近辺)から湧き出る良質な硬水を発見して、ドイツ人技師ウィーガンドと共同で「スプリング・バレー・ブルワリー」というビール醸造所を創設しました。国産のビールは日本人に「天沼ビヤザケ」と呼ばれて親しまれていました。

    1876年(明治9年)に2社は合併し、「バーバリアン・ビール」、「ラガー・ビール」などの商標でビールを売り出しました。
    1907年(明治40年)日本人に譲渡され、「麒麟麦酒株式会社」と社名を変えましたが、関東大震災で天沼工場は倒壊してしまい、工場を鶴見(現在の生麦工場)に移転しました。 工場跡は、今は「キリン園」という公園になっており、「麒麟麦酒開源記念碑」が建っています。
    そして隣接する横浜市立北方小学校の校庭には、当時のビール井戸が2つ残っています。

    取材場所詳細
    場所:麒麟麦酒開源記念碑
    住所:神奈川県横浜市中区千代崎町1丁目  ★地図